数々のタイトルを獲得し、選手としての集大成の時期にさしかかっている、梅山義隆選手(34歳)。
剣道を始めて30年、その足跡を駆け足でお伝えしようと思います。
今回のロングインタビューは、前編を剣道を始めたキッカケから高校生まで、後編を大学〜現在と2回に分けてお伝えします。
テレビに出るために強豪校へ!?
ーーインタビュー企画第1弾です。よろしくお願いいたします!
梅山義隆選手(以下:梅山):こちらこそ。
ーー最初に、「LET’S KENDO」というマイナーサイトはご存知でしたか?
梅山:知ってましたよ。他の部員たちも見てますよ。
ーーうれしいです!!早速ですが始めさせいただきます。
梅山:お願いします(笑)。
ーー剣道を始めたキッカケはなんだったのですか?
梅山:私が幼稚園の頃、1才年上の兄貴と小学校の体育館で遊んでいる時に、三芳少年剣士会が稽古をしていて「やりたいな」って思ったんです。軽い気持ちでした(笑)。指導では、小宇佐先生や本川先生が勝負だけではなく、剣道の本質や楽しさを教えてくれたことが、剣道にのめり込むキッカケとなりました。私の剣道に対する「原点」となることをたくさん教わりました。
ーー小学生の頃の成績はどうでしたか?
梅山:自分の納得できる結果は、まったく得られなかったですね。「日本一」を目標としていましたが、道場連盟の全国大会大分予選は勝ち抜くものの、優勝には至りませんでした。毎日稽古していたんですけどね(笑)。
ーー中学校でも剣道は続けられましたよね?
日田市立東部中学校に入学し、剣道部に入部しました。
ーー練習環境は、どうでしたか?
梅山:中学校の部活で約2時間、その後、三芳剣士会に行ってまた稽古してました。稽古が増えましたね(笑)。休みは基本的に日曜日でしたが、中学生の時も結局試合などで休むことはほとんどなかったですね(笑)。
ーー小学生の頃から毎日剣道をやり、さらに中学生になってからは二部練習ですか(笑)。中学生の頃の成績はどうでしたか?
梅山:全国中学校大会も九州大会も、出場していないです。県大会であと一歩のところまでは、いってたのですが・・・ 個人戦もダメでしたね。道場連盟の大会でも、勝てなかったです。だから、小・中ではホントに結果が残せなかったんですよ(笑)。
私のほうからお願いをして、入学させてもらったんです(笑)
ーー高校は名門・福大大濠に進学しました。どのような経緯だったのですか?
梅山:中学生の時に、玉竜旗のテレビ放映を見ていたんです。「テレビに出て、さらに日本一になれるのは、福大大濠ではないか?」と勝手に思ったんです(笑)。
ーー剣道推薦で入学されたんですよね?
梅山:ん〜 推薦入学ですが、私のほうからお願いをして、入学させてもらったんです(笑)。
ーーそうだったんですか(笑)。今までの経歴を見させていただいたら、スカウトされて入学したのかと思ってました。入学後は、寮生活となりました。先輩方と同じ屋根の下、いろいろと大変だったのではないでしょうか?
梅山:福大大濠には、体育寮と勉強寮があったんです。私は剣道推薦でしたが、なぜか勉強寮だったんです(笑)。だから先輩達とは、一緒ではなかったんです。運が良かったのか、悪かったのか(笑)。
ーー良かったと思います(笑)。自主練習はしていましたか?
梅山:夜8時に部活が終わり寮で夕食を済ませた後、勉強寮生は強制で約2時間の「勉強会」が毎日あったんです。まぁ参加していただけですけど・・・(笑)。その後に、寮の近くにあった非常に急な坂を、何本もダッシュしてましたね。他の寮生からは、あきれた感じで「よくやるね〜」とか「がんばってるね」なんて、言われてましたよ(笑)。私はそんな感覚、一切なかったですけどね。
ーー陰の努力があったのですね。剣道日本3月号のインタビューで「コンクリート入りのタイヤを引いていた」というのを読んだのですが。
梅山:あ〜 それは、剣道部の朝練でやっていました(笑)。決して楽ではないですけど、「坂道ダッシュ」のおかげで、死ぬほど辛かった訳でもないですね。
「ひらめきの面」、相手の動きがスローモーションみたいに遅く見えましたよ
ーー同期は何人いたのですか?
梅山:最初は10人、最終的には7人になっちゃいました。同期は、本当に強かったですね。ただ私は、大分から福岡に出て来たので「負けられない」「結果を出す」ということを常に思ってました。あと、大会や練習試合の度に親が大分から見に来てくれていたので、喜ばせるためにも「強くなってやる」と心に決めていました。
ーー強い決意があったんですね。1年生の時は、雑用など大変だったんじゃないですか?
梅山:私は「部室掃除係」でしたね(笑)。キレイに掃除していたつもりだったのですが、先輩の機嫌が悪かったのか、気に入らなかったみたいで、めちゃくちゃに怒られたことはありましたね。あれにはまいったな〜。確かに私自身、いまだにちょっと片付けは苦手なのはあるんですけど(笑)。
ーー気まぐれな先輩っていますよね(笑)。実家に帰る事はあったんですか?あと、ホームシックになったり。
梅山:夏と正月に、一泊二日くらいでしょうか。ホームシックになりましたね(笑)。ただ、自分が決めたことだし、親にも無理を言って入学させてもらったので、引くに引けないところはありました。
ーーでは、自分が「強くなったな」と感じた瞬間、またはキッカケとなったことはありましたか?
梅山:1年生の12月、千葉・習志野高校での練習試合の時に「あっ、これは!」という、面打ちが偶然出来たんですよ。「ひらめきの面」っていうんですかね?「打てば当たる間合い」というのを見つけたんです。当時、自分が考えていた間合いより「一歩遠間」だったんです。その練習試合では、面だけではなく、小手でも何でも当たってましたね。相手の動きが、スローモーションみたいに遅く見えましたよ(笑)。ちょうど福大大濠剣道部監督・黒木先生も見ていくれていて、普段はまず褒めてくれない先生が、褒めてくれたんです。
ーー強い人の話しを聞くと、「ひらめき」的なものがあると聞いた事があったのですが、梅山さんもあったんですね。
梅山:その「ひらめきの面」は、1日に数えくきれないくらい練習試合をして、肉体的にも精神的にも限界だったからこそ、出来た事なのではないかと思いますね。ちょっと感覚的なものなで、伝えづらいのですが(笑)。
ーーその後は、稽古での基本打ちでも「一歩遠間」を意識してたんですか?
梅山:実は、「一歩遠間」だと気づいたのは、大学に入学してからなんです(笑)。高校生の時は、その「ひらめきの面の感覚」を忘れないようにと意識してました。
ーーやはり、「孤独の坂道ダッシュ」や「コンクリートタイヤ引き」のお陰ですかね(笑)。
梅山:(無視して)これも後から気づいたのですが、その「一歩遠間」は、相手が「来ないだろう」または、構え直して次の打ちに準備する一瞬の「隙」の間合いなんだと思いました。ただ、その練習試合の時とまったく同じ感覚で「ひらめきの面」は、打てない事が多かったですけどね(笑)。
ーーそもそも小・中学校から、面は得意だったのですか?
梅山:得意ではあったのですが、絶対的な技ではなかったです。自信を持ち始めたのは高校に入って「払い面」を覚え、「ひらめきの面」からですかね。そして、得意技を身につけたことで、技や試合の組み立てに幅が持てるようになったと思います。
ーーいつからレギュラーになれたのですか?
梅山:最初のメンバー入りは1年生の終わりころ、第1回全国高校選抜の時に補欠になりました。その時、2回戦から先鋒で出させていただき、2位になりました。2年の夏までは基本的に補欠だったので、テレビ放映のある玉竜旗では、プラカードを持ってました。初めてテレビに映れたのは、そんな姿でした(笑)。それを見た地元の友達に、まったく悪気はないと思いますが「プラカード持ってたね」なんて言われて、勝手にスゴく悔しい思いをしたのを覚えてます。だから、「来年は絶対に出場する!!」って思いましたよ(笑)。
ーーやっぱりテレビで試合をする事が最大のモチベーションだったんですね(笑)。
「先鋒とは、必ず勝ってこなければいけない!」
ーー自分の剣道に、自信を持てるようになったのはいつですか?
梅山:2年生の冬に、九州大会個人戦で優勝した時です。
ーーでは調子の良いまま、第2回全国選抜・福岡予選に臨んだんですか?
梅山:それがですね〜、予選は先鋒として出場したにもかかわらず、1回も勝てなくて、決勝で福工大に負けました。自信過剰だったのかな(笑)。黒木先生に「先鋒とは、必ず勝ってこなければいけない!」と、こっぴどく叱られました。言われてからは、それまで以上に「勝ち」にこだわるようになりましたね。あの時は、本当に悔しかったですよ。車の中で泣きましたね。なんか、懐かしいな〜(笑)。
ーー黒木先生は怒る時、どんな感じですか?闘魂注入されるんですか??
梅山:全然手はださないんですよ。ただ・・・ 同じ九州ですが、福岡弁で怒られるのは怖かったですね〜。「そんな口調で怒るなら、殴ってくれたほうがいいよ」って何度も思いました(笑)。
ーー3年生になり、インターハイ予選を制した後、玉竜旗で優勝しました。念願のテレビ放映されたんじゃないんですか??
梅山:そうなんですよ!調子が良くて、トータルで25人抜きとかしたんですけど、注目される決勝だけは、引き分けでした・・・・(残念そうに)。
ーー準決勝も放映されたんじゃないですか??
梅山:いや〜、それが準決勝は、中堅から放送されたんですよ。まぁ決勝だけでも、映れたんでよかったです(笑)。
ーー話が進んでしまいますが、玉竜旗後の栃木インターハイでも優勝しています。決勝だけは、NHKで放送されたんですよね?
梅山:それが・・・ なかったんです・・・(これまた残念そうに)。バスケットボールの放映をしていたようです(笑)。
ーーあぁ〜残念でしたね〜(笑)。話が前後してしまいましたが、インターハイで優勝しました。やはり玉竜旗の勢いがあったのでしょうか?
梅山:ありましたね。
ーー優勝した感想は?
梅山:決勝で、あの「ひらめきの面」と全く同じ感覚で打てたんです!本当に、「三年間やってきてよかったな」って思えましたね。黒木先生も、褒めてくれましたし。あとは、「ホッとした」というのが本音ですね。
ーー「ホッとした」と言うのはどういうことですか?
梅山:さっきも言いましたが、「先鋒の役目=勝つ事」を達成できたということですね。当時、試合に関するデータを取っていたのです。先鋒(=梅山)が勝つと、チームの勝率が8〜9割というデータがあったのです。
ーーということは、そのインターハイでは梅山さん自身、負けなしですか?
梅山:予選リーグで1回負けました(笑)。チームとしては、なんとか引分けでした。そして、予選リーグは1勝1分けが2チーム、本数差で決勝トーナメントへ行きました。「やっぱりオレは負けちゃいけないな」とあらためて思い、決勝トーナメントからは、気合いを入れ直して、全勝しましたよ(笑)。
ーーテレビはなかったのは残念したが、優勝できて良かったですね!!
「テレビに映る」ことを目標とした結果、玉竜旗、インターハイ優勝、九州大会個人優勝などのタイトルを獲得した梅山少年。
後半では、大学入学から現在に至るまでを語っていただきます。
梅山義隆(うめやまよしたか)
昭和50年12月3日生まれ 大分県出身
身長168cm 体重70kg
剣道六段
大分・三芳少年剣士会にて剣道を始める。
日田市立東部中学校
福大大濠高校 九州大会個人、玉竜旗、インターハイ 各優勝
専修大学 関東学生(団体)優勝、関東学生(個人)2位
NTT東日本 全日本実業団、関東実業団 各優勝3回
※全日本選手権 2回出場
※専修大学剣道部コーチ
※2010/3/17公開記事